復興の歩み  石巻前網浜

ひろしの散歩道

  • ひろしの散歩道
    こちらのブログも私が公開しているものです。「復興の歩み 石巻前網浜」 の姉妹編です。どうぞこのブログも見て下さい。

東北古代史 蝦夷と城柵・官衙

ひろしの祈り 神社・寺院巡る旅

巡礼 奥州三十三観音

3.11被災女子学生奨学基金

  • 3.11 被災女子学生奨学基金
    この基金は、東日本大震災で被災した若い女性が、 困難に負けずに将来の可能性を拓いてゆくことを願って発足しました。 就学支援をするものです。

キャンナス

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

歴史探訪 陸奥国・諸国 延喜式内社

ふるさとの祭と民俗芸能

2016年3月21日 (月)

鼻節神社 宮城県七ヶ浜町

001_1_1

宮城県宮城郡七ヶ浜町に延喜式内社 鼻節神社が鎮座する。
名神大社であり、由緒ある神社です。

志波彦神社・塩釜神社の摂社でもあります。

祭神は猿田彦命

004_1

カーナビなしでは神社にたどり着くこと難しい感じです。

現在の参道は「裏参道」と呼ばれ、本来は海側からしか参拝できない神社でした。



009_2_1
拝殿 ↑

右奥にあるのは、境内社の八幡神社。

続日本後紀の承和11年(844)8月17日条では、霊験ありとして無位から従五位下に叙せられたとあります。

平安時代成立の「枕草子」に出てくる「はなうちの社」は当社を指し、都人にも知られ崇敬を神社であったという説あります。


012_2_1
拝殿 ↑

明治元年(1868)に社殿を修復した際、境内において、陸奥国府である多賀城で使用されていた国府厨印が発見された。



011_2_1

本殿 ↑


002_1

案内板↑

006_1

神馬舎 ↑



007_1_1

神馬の木像 ↑

008_1

左宮は三月田稲荷神社・天神社、右宮は山神社 ↑





019_2_1

花淵 灯台 ↑

神社の近くに花淵灯台があります。

古くはここに鼻節神社があったそうです。






 

2015年3月17日 (火)

香取神宮 千葉県香取市

058

香取神宮は千葉県香取市香取に鎮座する。

式内社(名神大神)、下総国の一宮。

御祭神は経津主大神(フツヌシオオカミ)

御祭神「経津主大神」は神代の昔、天照大御神の命を受けて鹿島の「武甕槌大神」と共に、出雲の国に天降り、大国主神と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。(日本書紀)

059

総門 ↑

御祭神の性格としては、フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から「武神・軍神」とみなされている。

名称の「フツ」についても、記紀に見える「フツノミタマ」という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれる。

064

楼門 ↑

神宮と名のつく神社は全国に23社あるが、その多くは明治以降に創建されたか、創建は古くても明治以降に神宮に昇格しています。 平安時代に全国の神社を集大成した「延喜式神名帳」には2861の神社が登場するが、神宮を名乗っているのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社にすぎない。

067

香取神宮 拝殿 ↑

春日大社、塩竃神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国に及んでいて、広く尊崇をあつめています。

一般からは家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されています。
さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通安全、災難除けの神としても有名です。


087

現在のご本殿は元禄13年徳川綱吉公の造営です。
拝殿は昭和15年国費をもって改築、桧皮葺屋根、黒塗権現造りの典雅な社殿です。

080

香取神宮 本殿 ↑

香取神社は、常陸国一宮・鹿島神宮と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称せられる一対の存在にある。

古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、鹿島神宮、香取神宮はその入口をおさえる地形学的重要地に鎮座している。

この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地に祀られた。
鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれています。


089

祈祷殿(旧拝殿) ↑
元禄13年(1700)の造営。昭和の大修築に伴って移築された。



062

香取神宮の由緒 ↑


078

神庫 ↑


074

073


ご神木  ↑

樹齢1000余年です。根回り約10mのご神木です。


095

境内の紅梅 ↑



2015年3月16日 (月)

鹿島神宮 茨城県鹿嶋市

005
大鳥居 ↑
東日本大震災で倒壊、御影石の鳥居に替わり境内に自生する巨木を用いた同寸法の鳥居に平成26年6月1日に再建された。

昨年秋、房総の旅で、鹿島神宮と香取神宮を参詣する予定でしたが、台風が襲来、成田以東のJR成田線、鹿島線が運行中止になったため、諦めました。

常磐道が全面開通を機に、今回車で参拝しました。

012

楼門 ↑

寛永11年(1634)水戸藩主徳川頼房公の奉納

鹿島神宮は茨城県鹿嶋市に鎮座します。

・ご祭神は武甕鎚大神(たけみかつちのおおかみ)

・常陸国の一宮であり、全国の鹿島神社の総本宮です。

020

・神宮と名のつく神社は全国に23社あるが、その多くは明治以降に創建されたか、創建は古くても明治以降に神宮に昇格しています。
平安時代に全国の神社を集大成した「延喜式神名帳」には2861の神社が登場するが、神名を名乗っているのは伊勢神宮、香取神宮の三社にすぎない。

052

鹿島神宮 拝殿 ↑ ↓

053

026


・御祭「武甕槌大神」は神代の昔、天照大御神の命を受けて、出雲の国に天降り、大国主神と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。(古事記)

日本書紀では香取神宮の御祭神「経津主大神」と共に国譲りの交渉したとあります。

022

鹿島神宮 本殿 ↑

021



042

奥宮 ↑ ↓


041

奥宮には本宮御祭神の荒御魂が奉祀されています。

奥宮は慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納されたものを元和の造営の際に引き移したものです。

043


・古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、鹿島神宮、香取神宮はその入口をおさえる地形学的重要地に鎮座している。

この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地に祀られた。
鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれています。

石巻地方には鹿島御児神社(日和山、論社石巻市真野)、和渕神社(経津主大神)が鎮座します。

010



032

鹿島神宮の森(天然記念物) ↑

031

034

さざれ石 ↑

君が代の歌詞にも出てくるさざれ石

051

祈祷殿・社務所  ↑

2015年3月10日 (火)

伊豆佐売神社 利府町飯土井

016

伊豆佐売神社は封内記などで飯土井村にあるといわれてきた神社です。
現在も利府町飯土井に鎮座する延喜式内社です。

この地域は古代駅家「栖屋(すねや)駅」の擬定地とされる菅谷地区に隣接します。

国府多賀城から北西に約3kmのところにあります。

013

拝殿 ↑

ご祭神は伊豆佐比賣命(いずさひめのみこと)
五穀豊穣の神として祀られている。

010

011

利府村誌には「この神は女性で、米作地帯の水の灌漑を第一に司り、秋の五穀豊穣へと農民が精出す上、この辺一帯の往古から水田開墾以来、日夜尊敬されていた神社」と記されている。  豊受姫命であるという説もあります。

創祀年代は不詳である。
日本文徳天皇実録、仁寿2年(852)8月7日の条には当神社へ正5位下の神階の授与があったことが記載されている。

014

12~13世紀頃の社殿が万治3年(1660)類焼により焼失、正徳5年(1715)仙台藩4代藩主綱村が社殿を建造したと伝えられている。
江戸時代後期には塩釜神社の末社とされていたが。現在は塩釜神社から独立している。
現在の本殿、拝殿は大正9年(1920)に新築された。

012

飯土井稲荷明神 ↑

017



神社の上り口に、「九門長者屋敷跡伝説について」という案内板がたっています。
九門長者屋敷跡に伊豆佐売神社が鎮座していたようです。
豪農九門長者の元に人身売買で売られてきた「悪玉姫」なる娘と田村麻呂の恋愛伝説があります。




2015年3月 5日 (木)

陸奥 総社宮  多賀城市

067

多賀城政疔東門跡地と加瀬沼の間に、木立に囲まれて、陸奥 総社宮が鎮座しています。
主祭神は八塩道老翁神・八塩道老女神です。

055

陸奥総社宮 拝殿 ↑

国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、参拝に不便なため、平安時代になって祭神を一箇所に合祀勧請するようになりました。これが総社宮と称せられています。
陸奥総社宮には、陸奥国31郡の100社(大社15、小社85の祭神)が合祀され、国土鎮護の神として、多賀城国府とともに東北の政治・文化・軍事の中心的役割を果たした由緒深い神社です。

069
051

神名額 ↑ 式内社100社が郡別に記載されている。

鳥居を抜けた両側の神名額には神社名が列記されています。
059

拝殿 ↑


060

総社宮 本殿 ↑



053

手水舎 ↑

065

老杉 ↑


062

神殿横には樹齢600年の老杉と220年余の老白木蓮が対になっています。
古人は長寿で仲の良い夫婦にみたて、家族円満幸せ神樹として「老杉に白木蓮の花化粧」と愛され、詠まれ、語りつがれてきました。

黄金山神社  涌谷町


061

     黄金山神社  ↑

宮城県涌谷町に延喜式内社 黄金山神社が鎮座します。

御祭神
  ・金山毘古命    ・天照皇大神    ・猿田彦命

陸奥国小田郡(宮城県涌谷町)は日本で初めて金が採れたところです。

奈良時代、聖武天皇によって東大寺の大仏が建立していた頃です。大仏に使う鍍金用の金が不足し大仏の完成が危ぶまれていた。そこへ天平21年(749)小田郡から金900両が産出したことが、陸奥国守百済王敬福から報告がありましたが、この黄金によって大仏は無事完成したのです。
なお、敬福は日本に亡命した百済王族の子孫である百済王郎虞の三男として生まれました

064
聖武天皇は、これを「国家始まって以来」と大いに慶び、年号を「天平」から「天平感宝」へとかえました。
現在の涌谷町は、古代陸奥国の小田郡の範囲にふくまれます。

奈良時代の郡の位置を確定することは不可能です。推定されるということでしょうか。

国史跡黄金山産金遺跡では、天平年間に建立された仏堂跡が1棟見つかり、遺跡内を流れる沢からは今なお砂金が採取できることが確認されました。
また遺跡の地に建つ黄金山神社は、産金当時にまで歴史をさかのぼることができます。

この地には、産金以前から黄金山を祀る社がありましたが、産金によって一躍脚光をあび、その神主日下部深淵は褒章され、社も官社として祀られることになりました。

047
      大鳥居  ↑

聖武天皇の天平のころ、陸奥に黄金が産出された。これを祝ふ大伴家持の歌が万葉集にある。

皇祖(すめろぎ)の 御代栄えむと、
 東(あづま)なる陸奥山に、黄金花咲く 
                          大伴家持
 

大伴家持は多賀城で亡くなっています。
 歌人でもある家持は、有力な政治家でもありました。

058_2

最近は歴代の東大寺管長が涌谷町を訪問しているのですね。
このような記念柱がいくつも建っています。


025

写真は2009年に東大寺を訪れた時の写真です。↑



小田郡に金が産出されるようになって、当時の朝廷はますます陸奥国への支配強化を図って行ったと言われます。天平宝字4年(760)には桃生城が造営されています

050_2

石割菩薩。↑


東大寺管長 平岡定海さんが「天平の仏さま」と命名しています。


051_2


045_2
神社の近くに歴史館「天平ろまん館」があります。

068_2




       

2015年3月 2日 (月)

志波彦神社  塩釜市

074

塩竃神社の境内に延喜式内社 志波彦神社が鎮座する。

志波彦神社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の名神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。



 祭神は志波彦大神です。
、『延喜式』の神名帳に記載されている2861社の中でもわずか225社しかない「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社です。

060_3

もとは仙台市宮城野区岩切若宮にあったが、明治4年(1871)の国幣中社となり、、明治7年12月5日この地を離れ鹽竈神社の摂社とされた。

068_2

志波彦神社 拝殿 ↑

現在の社殿は昭和13年(1938)に造営されたものです。

本殿・拝殿何れも朱黒の極彩色漆塗りで、昭和38年塩竈市の文化財に指定されました。

059


記紀を始め各書にも神話伝承の見えない志波彦大神とは如何なる神様なのでしょうか。
そのヒントが御神名であり志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志和町、栗原郡志波姫町に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在します。

これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられますが詳らかにはなっておりません。
但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。

064

木々でよく見えませんが、志波彦神社の本殿です。 ↑

 志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由には、鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された神と言われております。



塩竃神社境内に鋳銭釜があります。
江戸時代中期、仙台藩内で産出する銅で鋳造することを条件で、幕府から認可され、貨幣が鋳造されました。

燃料・原料、製品の輸送に便利な石巻が鋳造
場所に選ばれました

003

享保13年(1728)、石巻で鋳造された「寛永通宝」の裏側には「仙」の字を刻み鋳造髙の半分は藩内で、残りは江戸で売られました。 明治時代に入るまで江戸時代の通貨のひとつである「寛永通宝」は石巻で、鋳造されたものです。


002


               

鹿嶋御児神社 石巻市真野

8世紀後半から 9世紀前半にかけ、ヤマト朝廷と蝦夷との間で、桃生城への蝦夷の襲撃を皮切りに38年間の動乱が発生 しました。
ヤマト朝廷が東国蝦夷の地での支配地域を拡大 図る過程で、常陸国・鹿島神宮の末社が政治的な動きを果たしたと言われています。(石巻の歴史 第1巻上)

その末社のひとつが祭神・建御雷神の「鹿島御児神社」でした。 
建御雷神は大国主に国譲りを迫った神です。(古事記) 
ヤマト朝廷は支配を拒んできた蝦夷に服属をせまり、ついには支配した牡鹿郡のこの地に鹿島御児神社が鎮座していることからみて、もっとも重要な神社だったと思われます。

012

石巻市真野に鎮座する 鹿嶋御児神社 

延喜式内社・鹿嶋御児神社は現在石巻市日和山にあるとされています。
門脇村の「安永風土記」によると、葛西氏が日和山に城を構えたときに鹿島台に移祀し、享保19年(1734)に再び日和山の現在地に戻ったとされている。
石巻の歴史(第4巻)で執筆者三宅宗議氏は、この神社が「延喜式」の鹿嶋御児神社であるとしている。(1989年 発行)


001

日和山に鎮座する鹿嶋御児神社 ↑


しかし、鹿嶋御児神社は日和山だけでなく石巻市真野にも存在したことが知られています。
東北歴史博物館研究紀要(2013年3月) 副館長真山悟氏の論文「宮城県の式内社 位置の検討」において、何れが式内社か断定すること出来ないと言っている。
むしろ石巻市真野に鎮座する神社が式内社とするのが自然のようだとの論じています。

013<

真野村の「安永風土記」に、葛西家が牡鹿郡に入部した頃、小屋館(葛西館)を居館とし、当時館の北東にあった鹿島旧社を再興し、田地を寄付したとあります。 鹿嶋御児神社が再興されたという記録は、この地に古くからあったことを示すものです。
さらに、この神社に関し鹿島山所在の名石として、鹿嶋腰掛石が記載されており、まさに鹿嶋神の磐座とみてよいでしょう。

006

小屋館(葛西館)があった小山にはいくつもの平場がある。↑

001

小屋館跡は、平安時代の遺跡「内原遺跡」との複合遺跡になっているようです。↑

003

小屋館跡のある真野小山 ↑



この地にはには実際に小屋館とされる遺構も存在し、その傍らに「小屋前」という地名や寄進田の名残と思われる「宮田」の地名が確認される。

由緒の古さについて、日和山の神社も大昔とするが、詳らかではない。
葛西氏の本拠地が真野から日和山に移動した時、鹿嶋御児神社も動いたとみるのが理解しやすい。


017

旧社の礎石 ↑

現在の神社は最近建て替えられたが、以前はもっと大きな神社で、礎石が何個か見受けられた。


石巻市田道町遺跡からから木簡が発見されているが、それは平安時代初期 延暦11年(792)に蝦夷系豪族の「真野公穴麻呂」らへの出挙稲を貸付けていたことを示しているものである。

真野地域は平泉藤原時代の遺跡や伝承も多く残され、古くから中心的に開けていたといわれている。
古代において、ヤマト朝廷は蝦夷居住地域での支配の拡大政策を進めていたが、真野地域は重要な場所であったようだ。
その重要な地域に鹿嶋御児神社が建立されたことは不思議でない。
真野には式内社零羊崎神社も鎮座する。さらに、隣の水沼集落には式内社伊去波夜和気命神社が鎮座している。

001

鹿嶋御児神社が鎮座する内山(真野村風土記では鹿嶋山と呼ばれている。)↑


古代陸奥国においては、蝦夷征伐という武力(饗宴などの懐柔策も)による平定に伴って中央文化の移入が行われたが、宗教の分野では式内社の祭祀や仏教(天台宗などの密教)も浸透して来たようだ。

大きな地図で見る

 鹿島御児神社  石巻市日和山

 

001

石巻市日和山に鎮座するのが延喜式内社 鹿島御児神社です。

祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)
    鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと)

祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)とその御子である 鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと)の 親子二神である。
 武甕槌命は、天孫降臨に際し、葦原中つ国の平定に功績を挙げた神である。武甕槌命の御子神である鹿島天足別命は、香取神宮祖神の御子神と共に命を受けて海路奥州に下向し、東夷の征伐と辺土開拓の経営に当ることになった。


002

 

8世紀後半から 9世紀前半にかけ、ヤマト朝廷と蝦夷との間で、桃生城への蝦夷の襲撃を皮切りに38年間の動乱が発生 しました。
ヤマト朝廷が東国蝦夷の地での支配地域を拡大 図る過程で、常陸国鹿島神宮の末社が政治的な動きを果たしたと言われています。(石巻の歴史 第1巻上)

その末社のひとつが祭神武甕槌の鹿島御児神社でした。祭神武甕槌は大国主に国譲りを迫った神です。(古事記)

029

034
        鳥居から日和大橋、仙台湾を望む。 ↑


028

          日和山の案内板 ↑



004
       境内社 愛宕神社です↑
             6月24日に祭典が行われます。

007
      境内社  天満宮 ↑


006_2

      境内社 (左) 稲荷神社  (右) 八幡神社


026


鹿島御児神社のある日和山は、鎌倉時代から戦国時代までの約400年間葛西氏の居城があったところです。
日和山には震災直後、津波から逃れる多くの市民の避難場所になりました。

013
      

  江戸時代、北上川の改修事業を行った川村孫兵衛像と満開の八重桜 ↑



022
    奥の細道  芭蕉と曽良 は日和山からの眺望を見ています。 ↑
   

    園内には石川啄木、宮沢賢治等の多くの歌碑も建っています。

015 024

019 017

031
           日和山からの眺望  北上川河口と日和大橋  ↑

030
      日和山からの眺望  石巻漁港方面 ↑

2015年3月 1日 (日)

曾波神社  石巻市蛇田

001
    曾波神社鳥居 ↑

石巻市蛇田・愛宕山中腹に鎮座する延喜式内社 曾波神社があります。
牡鹿郡10座のひとつです。

祭神は志和彦神である。

山頂には愛宕神社があって祭神は日本武尊である。

010
     愛宕神社 ↑

志波彦神は宮城郡の式内社で地主神であるが、日本武尊は東国平定のシンボル的存在である。地主神と中央神の合祀になる。北上川のそばに立つ独立丘陵にあり、北上川の航行安全を祈る場である。(石巻の歴史第一巻上)



      003_2

012

014_2
          曾波神社本殿・拝殿 ↑

009

 神社本殿の直ぐ前には 天台宗 東雲寺跡の石碑があります。 ↑

 寛文3年(1663)、天台宗 東雲寺はこの地から現在地 蛇田中埣に移転しています。

021
  現在の天台宗 愛宕山東雲寺の山門 ↑

«延喜式内社とは?