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地図

2016年10月25日 (火)

定義如来 仙台市青葉区大倉

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山門 ↑ 門前町は多くの参拝者で賑わっています。


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西方寺は定義如来(阿弥陀如来)を本尊とする 仙台市青葉区大倉にある浄土宗のお寺です。
親しみを込めて「定義さん」と呼ばれています。門前町を含めた周辺一帯は「定義」と呼ばれている。
仙台市民が、正式名称の西方寺や正式山号の極楽山と呼ぶことは非常にまれ。
仙台弁の発音特性から「定義」は「じょうげ」と発音します。
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山門と仁王像 ↑

平重盛の重臣である平定能が壇ノ浦の戦い後に当地に隠れ住んだとされる平家落人伝説があります。定能が安徳天皇と平氏一門の冥福を祈って阿弥陀如来を安置し、また改名して「貞義」と名乗りました。当地では阿弥陀如来を定義如来と称しました。

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旧本堂 (平貞能公お廟)↑

貞能堂ともいう。 貞能の墓所の上に建てられた旧御廟の鞘堂として昭和2年(1927)に現御廟が完成。

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鐘楼 ↑


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延命地蔵 ↑ 

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天皇塚・連理のけやき ↑

安徳天皇の遺品を埋めて冥福を祈り、墓標として二本の欅が植えられました。

やがて二本の欅は一本の木として結ばれ「連理のけやき」と呼ばれるようになり、縁結びの神木として、多くの若い人たちの信仰を集めています。


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西方寺本堂 ↑   

平成11年11月完成。


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本堂内部 ↑   

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金色のステンドグラスが美しい大天蓋 ↑

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本堂に安置されている法然像 ↑   


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五重塔 ↑

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2016年8月14日 (日)

有明山神社  安曇野市穂高

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有明山 ↑

長野県安曇野市穂高に鎮座する有明山神社を参拝してきました。
有明山を御神体とする山岳信仰の神社で、本宮(里宮)のほか、有明山山頂に奥大宮があります。
天照大神の籠った岩戸を手力雄(たちからお)がこの地へ投げ飛ばしたのが有明山と伝えられている。
8代孝元天皇5年に造営されたのが、戸放権現と伝えられ、後の有明山神社です。

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有明山神社 拝殿 ↑

延暦24年(805)東国平定途上の坂上田村麻呂が有明山麓の妖賊・八面大王征討の際、この戸放権現に祈願し、見事に征伐したといいます。

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拝殿内部 ↑

江戸時代には一時衰微したが、明治に入って岡村岐一という人が現在地に社殿増築、神域も拡張した。信濃日光と称し、遠近より参拝者が多く、大正昭和に至り多くの皇族方の御参拝をいただき、植樹を賜りました。


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拝殿 入口 上部にある扁額 ↑ ↓


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山伏(修験)であることを忍ばせています ↑

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秩父宮世津子のご植樹 ↑


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手水舎 ↑


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手水舎 瓦葺4隅に浦島太郎一代記 ↑

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手水舎の天井  龍が欅の一枚板に彫られている ↑


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日光東照宮 陽明門を模して建てられた神門 ↑
 

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神門の白黒神馬 ↑ ↓


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神楽殿 ↑

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鳥居 ↑

 



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拝殿の右側に「妙見 里の瀧」がありました。 ↑

 




2016年8月11日 (木)

穂高神社 長野県安曇野市

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穂高神社は安曇野市穂高にある神社です。
延喜式内社(名神大社)であり、現在は神社本庁の別表神社です。
安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があることから「日本アルプスの総鎮守」の通称があります。
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穂高神社 拝殿   ↑

穂高神社がいつ創建されたか記録はないが、醍醐天皇の延長5年(927)の延喜式の神名帳には、名神大社に列せられて古くから信濃における大社として、朝廷の尊崇篤く殖産
興業の神と崇められ、信濃の国の開発に大功を立てたと伝えられています。


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穂高神社 本殿 ↑



・御祭神 
中殿  穂高見命     ➡ 神武天皇の叔父神
左殿  綿津見命    ➡ 古事記 「海彦・山彦」の海神
右殿  瓊瓊杵命    ➡ 天孫降臨の神
別宮  天照大御神
若宮  安曇連比羅夫命

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安曇族は海神系の宗族として北九州に栄え、大陸とも交渉を持ち高い文化を持つ氏族であったようで、しだいに活動範囲を四国、近畿、中部へと広げ、その一部は信濃国安曇野を安住の地と定め、稲作、農牧文化等を普及し、大きな力を持ち「和名類聚鈔」にある高家郷・八原郷・前科郷・村上郷の四郷からなる安曇郡を成立させている。

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拝殿内部 ↑


穂高神社式年遷宮とは、神の守る力を弱らないように20年に一度の大遷宮(本殿の建て替え)と、その間7年と13年に行われる小遷宮(部分改修と内部清掃など)があり、今年は小遷宮の年だそうです。
遷宮の年には氏子たちによって「穂高人形」と呼ばれる大きな人形が飾られる風習があり、無形民俗文化財にも指定されている。
5年前に私が参拝したときに比べ、拝殿、神楽殿がきれいになっていた。

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拝殿では祈祷が行われていました。 ↑



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神楽殿 ↑

降って武将仁科氏、松本藩主累代は社領を寄進し、式年の造営、祭祀の厳修につとめられ、明治5年郷社、明治15年県社、昭和15年国幣小社に昇格。
昭和20年神道指令により、官国幣社制度は廃止されて、現在は神社本庁の別表神社となっている。

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安曇比羅夫像  ↑

7世紀中頃の外交官・武将。 
百済を救援するため、水軍180隻を率いて百済に渡ったが、 663年白村江の戦いで戦死したとされる。

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お船の骨組み ↑


お船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日である。

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若宮社 ↑  安曇比羅夫を祀る神社

安曇氏は現在の福岡市東部を発祥地とする海人族として知られ、古くは海人津見と書き、
海人津見が訛って安曇になったそうです。


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日光泉小太郎像 ↑
昔、安曇の平が湖だった頃、安曇の犀龍が住んでいた。
犀龍と白龍王の間に生れたのが日光泉太郎である。
母の犀龍は「自分は諏訪大明神の化身」であると告げ、小太郎を背に乗せて、岩を突き破りながら日本海まで突進。おかげで湖の水が流れ出て、安曇が平野になったという。
犀龍が進んで出来た川を犀川という。


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仁王石 ↑

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仁王石の由来(案内板) ↑

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境内には道祖神もあります。 ↑ ↓


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健康長壽 道祖神 ↑
日本一大きいステンレス製の夫婦道祖神
2013年に長野県が日本一の長寿県になった記念に作られました。


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境内にニワトリがいました。人に慣れているようです。 ↑

2016年7月 4日 (月)

長嘨山 慈恩院  石巻市吉野町

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長嘨山 慈恩院は石巻市吉野町にある、臨済宗妙心寺派のお寺です。
松島瑞巌寺の末寺です。

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笹町元清は亡母の供養するため、寺を多福院北隣に建立し、雲居禅師(瑞巌寺住職)
によって万治2年(1659)に慈恩院を開山しました。
元清は笹町家20代に当たる領主であるが、元清の父胤持までは葛西に属する領主であった。
葛西氏が滅んで後、伊達正宗は知勇ある笹町を惜しんで家臣になるよう望んだが、胤持はそれを辞して、息子の元清から伊達に属したという。

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笹町の祖先は彦三郎胤重といい、奥州総奉行職である葛西三郎平清重の一族である。
文治5年源頼朝が奥州平泉の討伐のとき胤重もまた清重に従い、その戦功によって、宮内少輔に任ぜられ、牡鹿郡湊に居城したと伝えられています。


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毘沙門堂 ↑

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本尊 毘沙門天尊 ↑

毘沙門天尊像は5尺の本彫極彩色で江戸時代の作と思われるが、刻まれた時期、作者は不明であります。

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大慈堂 ↑

大慈堂は昭和53年春に建立されました。

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大慈堂の内陣と厨子 ↑ 

内陣及びその中の厨子とそれに付属する彫刻額等は、石巻市立町 旧家秋田屋の古い土蔵の2階に祀ってあったものです。江戸中期のものと思われています。
本尊 阿弥陀如来は高橋英吉の彫刻です。

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慈恩院板碑群  ↑

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たたずの碑 ↑  

慈恩院に倒れたままの碑があります。
笹町元清には男子がなく、伊達藩の重臣大条氏より養子を迎え嗣とした。
これが21代新左エ門重重頼である。
この重頼が牧山長禅寺の栄存法印と紛争を起こしたと言います。
慈恩院に倒れたままの碑は重頼の子22代彦三郎安頼の墓で、栄存法印の怨念により倒れたものであり、起こすと禍がおこるという伝説があります。

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阿弥陀峯 ↑

慈恩院の裏山は江戸時代の絵図を見ると阿弥陀峯とあります。
この崖になっている山の一部に「あみだ」からでたと思われる「なみだ坂」という名称が今尚残っています。
阿弥陀峯から五松山にかけて見られる自然林はケヤキ・ソロモタ林で石巻地方少なく残る原生林であり「日本の重要な植物群落」の一つです。
中に混生しているモクゲンジはその群生地としては日本で最も大きく、黄色い花は7月下旬~8月上旬にかけて、みごとな景観を見せてくれます。

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慈恩院の隣、湊小学校の建物に東日本大震災 津浪到達の高さが表示されていました。↑

 

2016年5月19日 (木)

時宗 専称寺 石巻市鹿妻

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石巻市東部の牧山丘陵に鹿妻山があり、麓に菅原神社があります。

この神社の前面の微高地が鹿妻山専称寺跡と考えられています。
菅原神社境内に建てられている37基の板碑は、神社の西側の竹林で発掘されたそうです。

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年号は永仁4年(1296)から長享年間(1487~89)まで、ほ とんどの板碑に「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ「阿弥陀仏」を付す戒名も見えます。
私の知るところ、石巻地方には現在、時宗のお寺はありませんが、旧版の「石巻市史」第2巻には牡鹿郡日和山城主葛西氏の菩提寺であったとし、創建を建武5年(1338)とし五代安国上人としているとあります。
板碑から判断して13世紀末ごろ開山、廃寺になった時期は長享年間以降と推測されます。
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[石巻の歴史 第1巻の記事から]
鎌倉後期から南北朝・室町期、博多、堺、放生津(越中国)など、列島における主要な港湾には、時宗の信者が住まいして、南無阿弥陀仏 の名号による踊念仏のかたわら、活発な通商活動を展開していた。そのうえに、付近武士の間にも、時宗が広められて、多数の信者を出現せしめることになった。 
牡鹿の湊を発信源とする時宗のネットワークの広がりは北上・鳴瀬など水系をさかのぼって、板倉(南方町)・姉歯(金成)・薄衣(川崎村)・水沢(岩手)下新田(中新田町)などの各地に信者仲間を発生せしめた。
時宗信仰の拠点、鹿妻山専称寺が位置していることから、伊原津が牡鹿湊と呼ばれた時期があったかもしれない。


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菅原神社 拝殿 ↑   


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菅原神社の由来 案内板 ↑

鹿妻立石に寛永年間(1625~1648)開山された立石山瑞鹿庵というお寺があって、この近くに当社がまつられていた。その後、古刹専称寺跡に遷座されたといいます。

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拝殿東側の鳥居 ↑

鳥居の扁額は不動尊とあります。

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鳥居を進むと、すぐ左側に「不動の滝」があります。
この日は滝の水が枯れていましたが、雨が降れば滝が出現するのか?

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さらに進むと小さな社があります ↑

稲荷神社か?


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2016年5月14日 (土)

日輪山 多福院 石巻市吉野町

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石巻市吉野町に日輪山多福院という曹洞宗のお寺があります。
古くは天台宗月光山日輪寺といいました。元亀元年(1570)笹町氏が堂を復興し、在茂和尚(鹿妻山 法山寺 4世)が開山して曹洞宗日輪山多福院と改めました。

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本堂 ↑

ご本尊は釈迦牟尼仏です。

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本堂の扁額 ↑


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本堂の北側」にお堂があります。

このお堂の中に供養碑があります。

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延年元年(1339)の銘を持つ「吉野先帝御菩提」と刻まれたこの碑は後醍醐天皇が亡くなれたことを悼んで、建立したものです。
当時石巻地方を支配していた葛西氏の一族によって、建立したものと考えられています。
(石巻の歴史 千葉賢一)

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山門(現在は東日本大震災津浪により流されてありません)から本堂に至る参道などに93基の石塔婆群(板碑)があります。鎌倉時代後期から室町時代に建てられたものです。

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板碑についての説明板がありますが判読困難です。


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大日堂 ↑

室町時代前期の作といわれる「木像 大日如来像」が安置されています。
秘仏だそうです。
その昔、天台宗であったことを窺うことが出来ます。

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こちらの神社は愛宕神社か?
本堂に向かって参道を進むと、左側にあるお堂です。

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2016年4月29日 (金)

元三大師堂と法泉寺(廃寺)  石巻市牧山

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石巻市牧山に元三大師堂があります。
石巻・牡鹿札所霊場 第3番札所代拝所です。
石巻大門崎に零羊崎神社の大鳥居から山頂付近にある神社まで参道(遊歩道)がありますが、その途中に天台宗法泉寺がありました。開山は元禄の頃、明治の初めには廃寺になったようです。

その天台宗法泉寺にまつられていたのが「元三大師像」でした。

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元三大師(慈恵大師良源)は18世天台座主になった高僧で、比叡山中興の祖と称せられいる方です。 門下には恵心僧都源信等がおります。
元三大師の名は「正月3日」に亡くなったことに由来するそうです。

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元三大師堂 ↑
元三大師堂には零羊崎神社の社務所の前を通らせていただくことで参拝できます。
つまり神社の境内にあるお堂です。

法泉寺の廃寺に伴って、零羊崎神社(長禅寺)に元三大師像を移遷、祀ったということでしょうか。

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現在の零羊崎神社の拝殿は明治の神仏分離令以前は天台宗長禅寺の観音堂でした。
今回、神社の前宮司にお話しをお伺いすることが出来ました。
長禅寺は檀家のない神仏習合の祈願寺でしたが、神仏分離令により、神社を選択したそうです。
観音堂にまつられていた本尊「龍乗観音」は梅渓寺に移遷され安置されています。
坂上田村麻呂が勧請した奥羽三観音のひとつ「牧山観音」です。

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栄存神社 ↑

元三大師堂のお隣には栄存神社が鎮座します。

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社務所前の茶畑と桜 ↑ ↓

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2016年4月16日 (土)

勝常寺 福島県湯川村

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勝常寺は福島県河沼郡湯川むらにある真言宗豊山派のお寺です。
会津中央薬師堂とも称されます。

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薬師堂 ↑

本尊は薬師如来です。
勝常寺は平安時代の弘仁年間(810~824)に法相宗の学僧・徳一によって開かれたといわれています。
徳一は畿内の出身で、藤原仲麻呂の子ともいわれています。
20歳代で関東に下り、会津地方を拠点い宗教活動を行いました。
天台宗の宗祖である最澄と三一権実論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣の関わる論争を行ったことで知られます。

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扁額 山号「瑠璃光山」 ↑

徳一の開創が確実視される寺院として慧日寺と筑波山の中禅寺があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられています。

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収蔵庫 ↑  国宝や国の重要文化財などの仏像が安置されている。

勝常寺については、徳一の創建を伝える文献塔はの直接的資料はないが、本寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられています。
創建当時は七堂伽藍とその付属建造物が多数立ち並んでいたと伝えられていrます。
木像薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されています。
鎌倉時代後期から真言宗に属するようになり、近世まで仁和寺の末寺でありました。
応永5年(1398)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現薬師堂)が再建された。
現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物です。

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勝常寺 案内板 ↑


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平成23年新築なった勝常寺 本堂 ↑

毎年4月28日には薬師如来の祭礼として念仏踊りがおこなわれます。
勝常寺念仏踊りは会津では一般に「会津念仏踊り」といわれ空也上人の頃から始まり、一遍上人の頃に盛んになったといわれています。
一遍上人の世に無学の民衆に伝えようと太鼓、鉦に拍子を合わせ、手を舞足を踏む踊りを信仰と供養に導き、併せて天下泰平と五穀豊穣を祈願します。(湯川村無形民俗文化財)

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本堂 扁額 ↑


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勝常寺 新本堂建立の碑 ↑

恵日寺 福島県磐梯町

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恵日寺は福島県磐梯町にある真言宗豊山派のお寺です。

かって慧日寺と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、明治37年(1904)に復興され、現在の寺号となった。
平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺として、国の史跡に指定されている。

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平成20年 復元された金堂・中門↑

慧日寺は大同2年(807)に法相宗の僧徳一によって開かれた。
徳一はもともと南都の学僧であったが布教活動のために会津に下り、勝常寺や円蔵寺を建立し会津地方に仏教文化を広めた。

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徳一は会津の地から天台宗の最澄と「三一権実論争」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送るなどしていた。

徳一は承和9年(842)に死去し、今与(金耀)が跡を継いたが、この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3800を数えるほどの隆盛を誇っていたという。

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薬師寺仁王門 ↑


中心伽藍遺構の東側に薬師寺と仁王門がある。
薬師堂にはもともと薬師如来が納められ、会津五薬師の一つ・東方薬師として多くの信仰を集めていたが、相次ぐ火災によって焼失したといわれる。

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薬師堂 ↑

現在の薬師堂は明治時代に再建された。   

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薬師堂 案内板 ↑



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龍宝寺 不動堂 ↑


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不動堂 案内板 ↑

この地区の山岳信仰については、不動院龍宝寺 不動堂の案内板に説明されています。
会津地方における修験道の広まりは、慧日寺より古いといわれ、大友家が大友修験の指導者として盛衰を繰り返しながら続いていました。
そのため、磐梯修験は大友修験とも称されていました。
龍宝寺は永正18年(1521)九州彦山の中津郡より彦山流の伝灯を受け、寺号を「磐梯山不動院龍宝寺」と称しました。
大友修験はその後彦山流から京都聖護院に移り「不動院」を「龍宝院」と改め「磐梯山 龍宝院」と称しました。
現在の 龍宝寺は修験不動尊として約180年前の再建といわれ、桁行、梁間とも三間の入母屋造りで、磐梯山修験の祈願寺となっています。

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慧日寺跡の看板と
山は会津磐梯山↑

慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。
そもそも慧日寺の開基は大同元年(806)に磐梯山が噴火した翌年のこおであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。


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慧日寺跡案内板 ↑ 

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慧日寺跡の近くにできた道の駅 ↑

2016年1月 6日 (水)

 大日孁(おおひるめ)神社 石巻市皿貝

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石巻市河北地区にあるショピングセンターで買い物の後、時間があったので相野谷地区をドライブ。いつしか皿貝地区を車は走行していました。

初詣の旗が立ち並ぶ神社を発見。名を大日霊(おおひるめ)という神社でした。

参道の入り口に皿貝法印神楽についての案内板が立ていました。

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  案内板  ↑

皿貝法印神楽は石巻市皿貝に伝わる伝統芸能で、宮城県の無形民俗文化財に指定されています。
以前に当地方のお神楽の大会で神楽の演舞を見たことがありました。
その保存会がこの神社を中心に活動していることを知って、私にとって新たな発見です。

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神社の拝殿 ↑

宮城県神社庁のホームページによると、

「長歴3年(1039)10月、17戸お以って一郷をなし、神殿を営み、一村の鎮守とした。建久2年(1191)紀州熊野三山より分霊を奉遷して、多峰神社としたとも言われる。
本山派成就院を別当とした。明治に入り大日孁神社と改める」

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主祭神は大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ) 天照大神の別称です。

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拝殿には神輿が置かれてました。↑

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神社の本殿 ↑

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参道には馬神が祀られています。 ↑

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社務所の玄関を見ると多くの神社が合肥されているようです。



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皿貝法印神楽 ↑

この神楽の由緒によると元和2(1616)年皿貝の修験成就院(本山派)9代久峰重光が古事記を基にして、神楽を編み出した伝えられている。明治以降に一時廃れかけたが、姫舞を樫崎の榊田法印から、荒舞を橋浦の女川村高橋法印から取得したとも言われている。
現在の舞型を見ると桃生神楽系と思われています。

動画は皿貝法印神楽保存会の演舞「所望分」です。↓


石巻・牡鹿地方神楽大会で撮影したものです。 ↑

 舞台の特色として舞台後方に一段高く楽座を設けている。

もとは2尺ほども高くしていたというが、現在でも5寸は段を付けていて広さは半間に2間4である。
本山派でもあるので胴一つに笛が二管を基準としている。
次の神社祭礼などで演じています。

旧6月15日  大日霊(おおひるめ)神社   皿貝
9月9日    鹿島神社             石巻市北上町本地
旧9月25日  天神社              石巻市馬鞍

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神社山道から望む皿貝集落 ↑

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