大悲山 観音寺 福島県桑折町
福島県桑折町に、奥州三十三観音第十二番札所 浄土宗 大悲山観音寺があります。
観音寺は宝治元年(1247)伊達家四代桑折西山城主政依が父義弘公の菩提を弔うため、京都・鎌倉にならい伊達五山の1ケ寺として建立された寺です。
創建当初は天台宗であったが、真言宗の時代もあったといわれています。
寛永13年(1636)に宗門改めの際、当時の住職が浄土門の出であったので、浄土宗に改宗、磐城専称寺の末寺となりました。
観音堂の歴史は観音寺より古く、大同年中(806~809)に坂上田村麻呂が奥州の蝦夷平定の際にこの地に建立し、聖観世音菩薩を安置して戦没者の霊を弔ったことに始まるといわれています。
弘法大師が聖観世音を彫って安置したとも伝えられています。
石段を上がったところに仁王門があります。
さらに20段上がったところに拝殿観音堂と鐘楼があります。
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コメント
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坂上田村麻呂は大同年間以前に陸奥国にいた人です。
延暦廿四年(八〇五)六月庚申【廿三】》○庚申。近衞中將從三位勳二等坂上大宿禰田村麻呂爲參議。
大同年間には更に上位の職に就かれています。
貞観十五年十二月七日【三実】873年
先レ是、陸奥国言、俘夷満レ境、動事二叛逆一吏民恐懼、如レ見二虎狼一、
望請准二武蔵国例一、奉レ造二五大菩薩像一、安二置国分寺一、粛二蛮夷之野心一、
安二吏民怖意一、至レ是許レ之、
夷俘境に満つとありますが、当時の陸奥国の境は刈田郡と伊達郡の間にありました。
所謂、国見防塁は伊達の大木戸、勿来の関とも呼ばれていました。
西行法師
『東路の信夫の里に休らへて勿来の関を越ぞ煩ふ』
『道奥の信夫の里に妹おきて勿来の関を越ぞ詫ぬる』
夫木 詠み人しらず
『逢隈をいづれと人に問つれば勿来の関のあなた成けり』
これらの歌から勿来の関の場所が特定されます。
源義家
陸奥国みちのくににまかりける時、勿来なこその関にて花のちりければよめる
『吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな(千載103)』
【通釈】「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ。
現在でも国見峠は強風で交通障害が多発する場所ですね。春先はJR東北本線が強風のため運転見合わせが起こります。
厚樫山防塁は藤原泰衡が造ったと記す吾妻鑑は曲筆です。源頼朝の時代には多賀城が廃絶された事が発掘調査で示されています。にも拘らず、源頼朝が多賀国府へ寄ったが如く吾妻鑑は記しています。多賀城が古代陸奥国府で在った如く曲筆したのです。
続日本紀を調べて頂ければ多賀城は玉造柵、胆沢城と同列の陸奥城柵に過ぎないのです。
投稿: 山田久夫 | 2017年11月10日 (金) 16時32分
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