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2015年9月

2015年9月25日 (金)

瑠璃光山 医王寺  福島市飯坂

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福島市飯坂に 真言宗豊山派 瑠璃光山 医王寺がある。

平安時代天長3年(826)に開基したお寺であり、奥州三十三観音 特別霊場であります。

弘法大師作の薬師如来をおまつりし、霊験あらたかで数多くの人々の信仰を集め鯖野も薬師と呼ばれ親しまれております。

また、佐藤家の遠祖、一族の菩提寺でもあります。

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内門 ↑

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医王寺本堂 ↑

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本堂 ご本尊大日如来↑

この地域は信夫といい治承の昔(1177)佐藤基治が当地の大島城を居城とし、奥州南部を治めていました。
その頃、平泉の藤原秀衡のもとにあった源義経が源平合戦の旗揚げした折、その子継忠・忠信の二人を遣わしました。
義経を守るべき使命をおびた兄弟は、平家との対戦で目覚ましい活躍をしましたが、惜しくも兄継忠は屋島の合戦で義経の身代わりとなって討ち死にしました。
その後、義経が兄頼朝と和w失い、都で追手に遭い攻められた時、弟忠信は「義経」を装って敵をひきつけ、その間に主従一行を脱出させることが出来ました。
しかし自分は討ち死にしました。

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奥の院 薬師堂、その後が佐藤一族 墓所 ↑

その後、弁慶らとともに奥州に入った義経一行は平泉へ向かう途中この寺に参籠し、遺髪を埋めて二人の追悼の法要を行いました。

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左から忠信公、義経公、継信公 ↑

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継信公・忠信公の墓 ↑

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乙和の椿 ↑

基治、乙和御前夫妻の墓碑の傍らにある古木で、乙和御前の悲しみ、母情が乗り移ったのか、つぼみのままで開かずに落ちてしまう椿です。

いつしか人は、この椿を乙和の椿と呼ぶようになりました。

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本堂山門を出て老杉の並木道を進むと、奥に奥の院 薬師堂があります。↑

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鐘楼堂 ↑

2015年9月17日 (木)

明王山 大聖寺  福島県桑折町

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福島県桑折町に 奥州三十三観音第13番札所  明王山 大聖寺があります

真言宗豊山派のお寺です。

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本堂は建立年代は明らかではないが、明和2年(1765)に大修理が施されたと記録されている。
ご本尊の阿弥陀如来が安置され、本堂入口には「瑜祇殿」の扁額が掲げられている。
草創の縁起など古い寺歴については明らかでないが、文化2年(1805)の大聖寺由緒書上げには、常西寺観音の別当寺で、寛永元年(1624)に宥甚法印が再興し、後に保原の長谷寺の末寺となったと記されている。

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本堂に向かって左の石段を上がったところに観音堂がある。
常西寺観音と呼ばれ、往時は補陀山常西寺と号する独立した寺であった。
縁起について明らかでないが、一説では、名取老女旭がこの地に草堂を結び、弘法大師作の白檀の聖観世音菩薩を本尊とし、その後平泉の藤原秀衡がこれを再興したと伝えられている。
補陀山常西寺時代の御本尊白檀の聖観世音菩薩は等身仏であったが、何故か今では頭部だけが残って伝えられ、大聖寺の寺宝として秘蔵されている。
その御開帳は三十三年に一度で、最近では昭和59年に行われた。
また、前仏の御開帳は毎年4月第2日曜日となっている。
 
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観音堂 本尊 聖観世音菩薩 ↑


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観音堂の左側にある鐘楼 ↑

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本堂左手にある地蔵堂 ↑

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大悲山 観音寺  福島県桑折町

 
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観音寺 本堂 ↑

福島県桑折町に、奥州三十三観音第十二番札所  浄土宗 大悲山観音寺があります。
観音寺は宝治元年(1247)伊達家四代桑折西山城主政依が父義弘公の菩提を弔うため、京都・鎌倉にならい伊達五山の1ケ寺として建立された寺です。

創建当初は天台宗であったが、真言宗の時代もあったといわれています。
寛永13年(1636)に宗門改めの際、当時の住職が浄土門の出であったので、浄土宗に改宗、磐城専称寺の末寺となりました。

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拝殿観音堂 ↑

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観音堂の歴史は観音寺より古く、大同年中(806~809)に坂上田村麻呂が奥州の蝦夷平定の際にこの地に建立し、聖観世音菩薩を安置して戦没者の霊を弔ったことに始まるといわれています。
弘法大師が聖観世音を彫って安置したとも伝えられています。
この観音様は秘仏として奥の院観音堂に祀られています。

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仁王門 ↑

石段を上がったところに仁王門があります。
さらに20段上がったところに拝殿観音堂と鐘楼があります。

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鐘楼 ↑


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観音寺 案内板 ↑



2015年9月16日 (水)

安狐山 斗蔵寺  角田市小田

 

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角田市の斗蔵山(標高238m)は、地元では「おとくらさん」の愛称で親しまれている霊峰で、山頂には、大同2年(807)に坂上田村麻呂が建立したと伝えられる斗蔵寺観音堂があります。
奥州三十三観音第四番札所とされ、県内外から深い信仰を集めています。

駐車場から斗蔵寺まで400mの遊歩道(霊験の道)となっており、野鳥の声を聞きながらのウォーキングコースとなっています。

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斗蔵寺観音堂 ↑

安狐山 斗蔵寺は真言宗智山派のお寺です。
開草については弘法大師、慈覚大師であるとの二説があるそうです。

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観音堂内部 お前立ての千手観世音菩薩 ↑

寺に伝わる青銅造千手観音像懸仏(秘仏)は鎌倉時代のもので、宮城県の文化財に指定」されています。

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全国から奉納された18体の観音さま  ↑

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境内の石仏 ↑

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斗蔵神社 ↑   

斗蔵観音堂の奥に鎮座する神社で日本武尊も東征の際、この地にきたといわれています。


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鐘楼 ↑   

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子安観音 ↑   


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斗蔵山へのは入口の赤い橋↑


福島県の札所(11番から13番)から阿武隈川沿いに国道349号を進んだが、先日の大雨のため途中で通行止め。
ちょうど通りかかった人の案内で、どうにか県道105号に入って角田市斗蔵寺にたどり着くことが出来ました。

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斗蔵山から角田市街地が見えます ↑

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斗蔵山駐車場の野鳥の森の案内板  ↑↓   

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香積山 天王寺  福島市飯坂

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福島県飯坂に 臨済宗妙心寺派 香積山 天王寺があります。

奥州33観音 第11番札所です。

天王寺は大阪、谷中、富国の天王寺とともに日本四天王寺の一寺といわれ、用明2年(587)用明天皇が開基したと伝えられています。

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天王寺 本堂 ↑

開山当初は天王山天王寺と呼ばれ、毘沙門天、千手観世音菩薩、地蔵菩薩を安置したのに始まったといわれています。

平安時代文治5年(1189)源頼朝の平泉攻めの兵火により焼失、鎌倉時代に入って法燈国師が東北行脚の途中この寺に立ち寄り、禅の道場として再興し、開山第一の祖となりました。

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室町時代 応安7年(1375)智鑑禅師が七堂伽藍を建立して再興したが、時代に翻弄され再び衰微した。
天正3年(1575)領主飯坂右近将監宗康が住職春翁正堂とはかり中興に力を尽くした。

その後、元禄年間に山火事があり類焼、現在の本堂は宝永7年(1710)に住職や檀徒の努力により建てられた。

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11番札所の観音堂は三済閣ともいわれ、本堂の右隣の一段高いところにあって、参道も本堂とは別になっている。

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11番札所 観音堂 ↑

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ご本尊は聖観音菩薩で香積観音とも呼ばれている。

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観音堂の近くにある鐘楼 ↑

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ぼけ除け延寿観世音菩薩 ↑

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明治32年天王寺裏山で、経筒が発見されました。国の重要文化財に指定されちます。

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