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2015年3月

2015年3月31日 (火)

金剛寺(新宮寺) 観音堂 名取市高舘川上

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奥州三十三観音 第3番札所 桑島山金剛寺(熊野山新宮寺) 観音堂は、別名川上観音堂と称し、増田川に架かる観音橋の袂にあります。
境内には地区の集会所「川上地区生活センター」があります。

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御堂は2間(3.6m)四面の濡れ縁がめぐらされ、四隅の丸柱が太く安定感があります。

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御本尊十一面観音菩薩は2m余りの木造で、金箔仕上げ、慈覚大師の作とつたわっています。

往時の別当寺は金剛寺で、観音堂から南西500m先にあるが、無住で文献も少なく由緒不明である。伝承によると、用明天皇時代(585~587)の創建。
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観音堂には絵馬が掛けられている。↑

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宝暦10年に奉納された梵鐘 ↑

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現在は金剛寺の本寺である新宮寺が務めており、御朱印も新宮寺からいただきました。
新宮寺は安永2年(1773)の古文書によれば、天台宗から真言宗智山派に改宗、大聖不道明王を本尊とし、山城国醍醐山報恩寺の末寺となり、保安年間(1120~1124)に創立したとあります。

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大同の年号(806~809)が記された一切経は国の重要文化財mに指定され、新宮寺前庭にある収納庫に奉安されている。

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熊野神社境内にある新宮寺文殊堂 ↑

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新宮寺 地蔵堂 ↑

2015年3月30日 (月)

那智山 紹楽寺  名取市高舘吉田

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奥州三十三観音 第一番札所  曹洞宗 那智山紹楽寺は名取市高館吉田にあります。
この高館山麓には一番札所のほか二番・三番札所が点在します。

また、この地域には名取熊野三社(熊野神社、熊野本宮社、熊野那智神社)も鎮座し高舘山が古くから信仰の山であったようです。

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紹楽寺本堂 ↑

開山は飛鳥時代と伝えられていますが、応永20年(1413)山形市半郷安養寺三世融真和尚が曹洞宗に改め開創したが、その後幾度か山火事にあい、西方約200mの所よりこの地に移しました。

 

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本堂にある御前仏の十一面観音   ↑

ちょうど、これから本堂では法要が行われるところでしたが、住職のはからいで撮影できました。

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境内に十一面観音菩薩があります。 ↑

説明書きには分霊像とあります。

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●高舘観音堂

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観音堂(別名高舘観音堂) ↑

高舘観音堂の創始は古く、御本尊十一面観音像は養老3年(719)、今の名取市閖上の浜から引き上げられ、用明天皇のとき7間4面の堂建立し、羽黒山物響寺と号し、同寺の本尊として安置したのが始まりです。

保安4年(1123)名取老女旭が紀州那智観音をここに分霊勧請してからは那智十一面観音と改称し、真言宗 那智山物響寺と号するようになった。
慶長元年(1596)山火事の類焼で焼失、慶安2年(1649)に現在の御堂が再建された。
天保7年(1836)同寺の退転により同宗系の管理となり、後に紹楽寺に移管された。

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熊野那智神社 ↑


高舘観音堂は熊野那智神社のすぐ傍にありました。

紹楽寺の近くから観音堂のある高舘山頂へ山道を車で行けますが、舗装もされてなく悪路です。
那智が丘団地、公民館の方から行くのがお勧めです。道路は舗装され容易に行けます。

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神社境内の杉の大木 ↑

銀杏や高野槇の大木(古木)もみられます。

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眺望も良好でした。 ↑
 

2015年3月25日 (水)

白華山 補陀寺  気仙沼市古町

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山門 ↑


JR大船渡線 気仙沼駅の北側に奥州三十三番観音 三十番札所 曹洞宗 白華山 補陀寺がある。
道路から7段の石段を上がると山門、さらに石段18段を上がると本堂の前庭に出る。

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本堂 ↑

寺伝によると補陀寺の開山は寛永2年(890)。
元は、天台宗柏華山補陀落寺と称し隆盛を極めたが、平泉の藤原氏の滅亡と共に衰退した。
後に、宝亀寺6世周庵文懊和尚が天文3年(1534)再興、曹洞宗補陀寺と号し、中興開山しました。

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補陀寺本尊 釈迦牟尼仏 ↑

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補陀寺 六角観音堂 ↑

平安末期、、保安4年(1123)に名取熊野神社を勧請してと伝えられる伝承上の人物名取老女が奥州を巡礼して、創建した三十三箇所の観音堂のひとつといういわれがある。
平面は珍しい六角形で、一辺の長さ2.47m、屋根は六角錐体、赤瓦葺、内外部朱塗で板天井に墨絵をえがく。堂内の須弥壇上に入母屋造りで、千鳥破風、軒唐破風をつけたこけら葺きの家形逗子がある。 宝暦12年(1762)制作、享和2年(1802)に修理したとの文書がある。 気仙大工の作。

観音堂の本尊は如意輪観世音菩薩です。
恵心僧都の作と伝えられる。

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本堂には千体観音像、阿修羅像が安置されていました。
東日本大震災で亡くなった人々の供養と鎮魂の仏さまです。


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捕陀寺の樅の木 ↑


2015年3月22日 (日)

海岸山 普門寺  陸前高田市米崎町

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奥州三十三観音 第29番札所 曹洞宗 海岸山 普門寺は陸前高田市米崎町にあります。

普門寺の草創は仁治2年(1241)。
臨済宗開祖栄西禅師の弟子記外和尚が開山。
記外和尚は三度、宋に渡ったが、最後の帰国の際に宋の皇帝より聖観音菩薩、愛染明王の掛け軸等五種の宝物を賜った。

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本堂 ↑

開山以来260余年の寺歴は明らかでない。
永正元年(1504)当時の浜田城主が石鳥谷の大興寺十世如幻和尚に請い、現在の地に再興開山したという。

天正19年(1591)、慶応3年(1867)の2度火災に遭い、堂宇焼失したが、皇帝より拝領の寺宝は焼失を免れた。

本堂は明治5年(1872)に再建、現在は山門を除く7堂伽藍が整備された。
山門は再建されていない。

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御本尊は釈迦牟尼仏です。

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本堂の裏手に観音堂があります。 ↑

観音堂には聖観音菩薩が安置されています。

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三重塔 ↑

文化6年(1809)岩手県内唯一の塔婆建築の三重塔が建立されました。

地上より12.5mの高さ、気仙大工の粋を集めたものです。

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青銅の大仏 ↑

享保3年(1718)唐金の大仏建立。高さ5mあります。
この時代で、青銅製のこの大きさのものは東北では稀有のものです。

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境内、本堂前に五百羅漢があります。↑
「未来への記憶プロジェクト」の一環で、被災者を中心とした参加者たちが、彫刻家の指導を受けながら自ら石を彫った羅漢様です。

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台の形は船です。 極楽浄土へ向かう船 ↑

安置されている仏像は震災直後百日目に奉納された千体物、①京都の大文字焼きに送られた高田松原の松が諸事情で230体の仏様に変わり、②それから京都静原小学校の児童の作った焼き物の80体、③中心には松原の松で造られたお地蔵さん2体。

上の棚には阿弥陀三尊像が乗っています。
さらに高い位置には日本を代表する版画家井堂雅夫さんが描いた「阿弥陀如来25菩薩來迎図」がかけられていました。

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田窪恭二先生の米崎りんご園(屏風) ↑

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金沢翔子さんの「書」 ↑

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参道 ↑

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代門 ↑

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鐘楼 ↑

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参道入り口から陸前高田市街地の方向を望む ↑

2015年3月21日 (土)

大善院 蛸浦観音  大船渡市赤崎町

 

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奥州三十三観音 第28番札所 修験宗大善院 蛸浦観音は大船渡市赤崎町にあります。
近くに鳥居は見えるのですが、蛸浦観音になかなか辿り着くことが出来ませんでした。
崎山家は大善院の末裔で、開創以来代々世襲で、別当であります。

崎山家は観音堂から5分位離れたところにありました。
観音堂参拝の後、崎山家で御朱印をいただきました。

崎山さんの家族によりますと、駐車場もあったそうですが、東日本大震災により、駐車スペースがなくなり、参拝道路も分かり難くなったそうです。


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鳥居を入ったところに、尾崎神社が見えます。
(鳥居のすぐ前まで、海になっていますが。)

尾崎神社の右側に蛸浦観音がありました。

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蛸浦観音堂 ↑

三間(5.4m)四面に三尺(90cm)の濡れ縁をめぐらした御堂の内部は内陣と外陣に仕切られているそうです。 建立の年代は明らかでないが、修験僧の祈祷が行われていた面影が残っているそうです。
残念ながら、観音堂には誰もいなく、内部を拝見することが出来ませんでした。
御本尊は千手観音菩薩です。
逗子に納められて安置されていますが、作者年代もも明らかでないそうです。

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名取老女旭が奥州に三十三所の札所を設定する旅の途中、この山に祀られた尾崎神社の霊気を感得し、28番札所を設けたといわれています。
昔は神仏習合だったため、大善院は尾崎神社と観音堂を併せ護持していたものと考えられます。

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尾崎神社の草創は延暦2年(783)。
養和元年(1181)に鎮守府将軍藤原秀衡より社領2百石を賜り、天正18年(1590)に領主葛西氏が滅びるまで続きました。
伊達政宗以来代々藩主巡国の際奉幣され、明治維新後に郷社に列し、さらに明治7年(1874)に村社に列しました。
   

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本殿は尾崎山の山頂にあり、観音堂の傍にあるのは昭和39年に参拝者の便を考えて新たに建立された拝殿であります。

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鳥居の前の北前船復元船「気仙丸」が見えます。↑

この復元船は東日本大震災にも無傷で残ったそうです。

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蛸浦漁港には大型漁船が停泊していました。↑

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鎌田水産 ↑

蛸浦観音のすぐ前の漁港にある鎌田水産は東日本大震災の津波で甚大な被害を受けたそうですが、すでに復旧・復興し、生産再開しているそうです。



亀峰山 長泉寺  一関市大東町大原

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奥州三十三観音 第26番札所 曹洞宗 亀峰山 長泉寺は一関市大東町大原にあります。
長泉寺に到着したのは、午後5時近く。
だんだん薄暗くなってきました。
山門をくぐって石段を上がると本堂がありました。

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永保2年(1082)当時この地の地主牧野平馬康明の開基、開山は教山智明大師で、天台宗 日輪山蓮華院永保寺と号しました。

後に衰退したが、文安元年(1444)に大原城主が再興、曹洞宗に改められ、永正3年(1506)に現在の山号寺号に改められた。

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境内には亀の像が多くあります。↑

山号亀峰山の由来について次のような伝説が伝わっている。
「ある日、和尚がいつものように本堂で勤行していると、一人の娘が熱心に聞いているので和尚が何処から来たかと尋ねると、私はこの山の甲山池に住む亀で、この山に幾万年も住みたいのでどうぞ法名を授けてくださいと願った。

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亀石 ↑

和尚はこころよく引き受け『法連明亀』と法名を授けた。娘は喜んで何度も礼をして山に帰った。」それから亀にちなんで山号を亀峰山、寺号を長泉寺と改めたという。
本堂のご本尊は釈迦牟尼仏の坐像です。

いつもは、本堂に上がり、ご本尊を拝ませていただくのですが、到着が遅くなってしまったので、今回は遠慮させていただきました。

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26番札所 観音堂 ↑

観音堂は本堂の裏山の斜面に立っています。
一間(1.8m)四面に1尺6寸(48cm)の濡れ縁がめぐらし、須弥壇に御本尊千手観音が祀られています。


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六角堂 ↑

観音堂から少し離れたところに六角堂があります。

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鐘楼 ↑

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白山妙理大権現 ↑

曹洞宗の開祖である道元禅師が入宋の際に旅の祈願をこの権現様に祈ったと言われている。道元禅師が帰国後、曹洞宗を開き永平寺を開山されて以来、加賀白山神社を総鎮守と定めた。
現在でも毎年7月永平寺雲水による「白山拝登」が行われ、「白山妙理大権現」を拝し神殿で読経供養が行われています。

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菅江真澄も訪れているようです。 ↑

2015年3月 4日 (水)

大白山 長承寺  登米市中田町

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長承寺 鳥居と山門  ↑

登米市中田町上沼に奥州三十三観音 第23番札所 曹洞宗長承寺があります。 寺の裏山は大泉城址で、眼下に北上川が流れています。
庫裡で参拝の挨拶しようと玄関前に立つと、犬が迎えてくれました。

ご住職と奥さんからお茶のご接待をうけ、さらに本堂を案内していただきました。
大変ありがたいことです。 感激。

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長承寺観音堂 ↑

● 草創について

・弘仁元年(810)慈覚大師が奥州巡錫の折り、この地を訪れて草庵を結び、しばらく逗留して自ら四尺六寸(135cm)の千手観音菩薩坐像を彫刻、御堂に安置したと伝えられています。
それが二十三番札所のご本尊です。

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本堂にあった千手観音像の写真を撮影させていただきました。 ↑



・さらに、大師は不動明王、毘沙門天、二十五菩薩を彫刻し、ご本尊とともに安置しました。

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本堂 ↑

・また、本堂には阿弥陀如来、山門には仁王の大像、外堂には白山、薬師の尊像を彫刻し、安置しました。

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子安観音堂 ↑

子安観音堂には得一作の地蔵菩薩、庫裡には運慶作の韋駄天尊を安置、一山の諸堂すべてが完成したのは嘉祥2年(849)、慈覚大師が草庵を結んでから40年後でした。

・その時にはすでに大師の後継・慈円律師の代になっており、改めて天台宗補陀山観音寺と号しました。
その後280年間詳細は不明で、長承元年(1132)天台の覚源法師がこの寺の再興に務め、補陀山長承院と改め、その後75代崇徳天皇の勅願時となり、号を長承寺となりました。

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・その後も藤原氏や葛西氏、帰依する一族の盛衰とともに隆盛と衰微をくり返し、永禄2年(1559)天台宗から曹洞宗に改め、大白山長承寺と号しました。

ご本尊は釈迦牟尼仏です。

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本堂 ご本尊釈迦牟尼仏 ↑

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観音堂は、3間(5.4m)四面に4尺5寸(135cm)の濡れ縁をめぐらした御堂で、建立について記録はないが、室町初期(1350)頃と伝わる。

御堂の床下に1万1千以上の一石一経の小石があり、天明、天保の飢饉で亡くなった人々の供養とされている。


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妙理堂 ↑

本尊は妙理菩薩、薬師如来です。


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本堂には多くの掛け軸が飾ってありました。
ご住職が手表装したものだそうです。

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土井晩翠の自筆の掛け軸です ↑

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長承寺の案内板 ↑

昭和52年に大改修が行われた。

宮城県の文化財保護委員が視察に訪れた際、長承寺は建物、仏像とともに国宝あるいは重要文化財級のばかりと称賛されたといいます。

2015年3月 3日 (火)

遮那山 長谷寺  登米市中田町

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奥州三十三観音 第二十四番札所 「天台寺門宗 遮那山 長谷寺」は登米市中田町浅水にあります。 2015年3月3日 参拝しました。


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観音堂 ↑

・長谷観音の創始の歴史は古く、天平宝字六年(762)に陸奥守・藤原恵美朝獦が山頂に笏を納めこの地の発展を誓願し、神護景雲二年(768)、釈勝道上人が世尊山法誓寺を建立しました。

・延暦20年(801)に坂上田村麻呂が奥州平定に出陣するにあたって、大和国初瀬山長谷寺に戦勝祈願し、勝利することが出来たが、大同二年(807)この山に初瀬山長谷寺を勧請して、長谷観音院と号しました。

・陸奥国7ヶ所に建立された観音堂のひとつであり、藤原清衡や葛西清重らの帰依により長く栄えました。

・1557年天台宗から修験道に改宗。

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長谷観音堂前に見える大木は遮那桜の木です。 ↑

・天正18年(1590)、豊臣秀吉により葛西家の領地没収の後、次第に衰退の一途をたどりはじめ、数坊がキリスタン信仰をしたとの理由で伊達政宗の家臣に堂塔を焼かれ衰退の一途をたどりました。

・観音堂は文化10年(1813)水越村肝入り良作が願主となって再建されました。
7間(12.6m)四面に4尺5寸(135cm)の濡れ縁がめぐらされています。

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ご本尊十一面観音菩薩立像 ↑

(長谷寺道場で写真を見せて頂きました。)


・ご本尊の十一面観音菩薩立像は寛永10年(1633)登米伊達家の家臣高橋五郎兵衛重昭が主家の繁栄と武運長久を祈願して奉納したものです。開山以来3代目で、木造身丈7尺2寸(2m18cm、京都の仏師八幡行念の作であります。

・2代目の旧本尊は長谷寺道場に安置されています。
像高は3尺6寸(1m9cm)平安後期、釋恵心僧都の作と伝えられています。

・最初のご本尊の胎内には坂上田村麻呂の奉納した黄金の十一面観音が納められていましたが、天正18年の戦火で焼失しました。



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・明治政府の神仏分離令により、修験道から天台寺門宗に改宗、幾多の盛衰を経て現在に至っています。

長谷寺は十一面観音を本尊、白山権現を守護神とし、広く信仰されていましたが、明治時代に白山神社として、分離されました。

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長谷寺本堂(道場) ↑   

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道場のご本尊 ↑
  
長谷寺道場の本尊は大聖不道明王坐像です。
長谷寺が羽黒山修験道であった時代の本尊で、像高93cmあります。鎌倉時代の仏師光慶の作と伝えられています。

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以前は、美里町の山神神社に祀られていたと伝えられています。↑
堂の右中央に祀られているのが、旧本尊(2代目)の十一面観音像だそうです。
       

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掛け仏 大日如来 ↑


長谷寺道場には多くの仏像、神像が安置されていました。

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長谷観音虎舞の獅子頭 ↑

・長谷寺は長い歴史の中で幾多の盛衰や災難に見舞われながらも、仏像や古文書、絵馬など多く残されています。
さらに、長谷観音虎舞、長谷山打ち囃子、長谷山甚句など民族芸能も伝承されています。

長谷観音虎舞 今年は(2015年)3月1日、雨降る中、実施されたそうです。

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