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2015年3月 5日 (木)

郷土史講座「縄文・古代・中世の集落」 石巻図書館

10月5日(土)石巻図書館で郷土史講座「縄文・古代・中世の集落」が開催されました。

講師は副館長の中野裕平さんです。

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いつもでしたら、第1週の土曜日は東北歴史博物館館長講座を受講するのですが、今日はキャンセル、地元石巻図書館主催の講座を受講しました。

講座の概要
●旧石器時代には既に「住居」の概念がありました。
初めは、獣皮や柴で風よけをしながら岩陰に寝泊まりしました。火の使用を覚えてからは、洞窟内に寝泊まりするようになった。

日本最古の住居跡は大阪市藤井寺市で発見されている。約2万2千年の住居跡で、梨田昌孝(現NHKプロ野球解説者)が自宅兼商業ビルを建設しようとした際、住居跡が発見された。竪穴住居である。

●縄文時代の集落
立地する場所は丘陵上、丘陵端、里山の麓などで、主要な食糧に水産物」がある場合、浜などの水に面した場所に立地することもあった。
 
 

 
沼津貝塚、南境貝塚など。この二つの貝塚は3千年以上に渡る遺跡だそうです。
宝ケ峰遺跡(河南町)も土器の出土状況から集落跡と推定される。
石巻地方には、その他多くの遺跡があります。
住居形態は竪穴住居・高床住居(倉庫)

001●古代の集落
この時代は農耕が一般化している。また、街道も整備された。
住居形態は竪穴住居・高床住居(倉庫)である。

  石巻市でのこれまでの調査例
    田道町遺跡、新山崎遺跡、新金遺跡などがある。

●中世の集落
職能集団
 
・市が開設されより売り上げが期待できる場所への移住・定住が行われた。
門前町が形成された。
本格的に町場が形成されるのは江戸時代になってからである。
新たに開墾した田は新田と名づけられている。

・立地する場所
丘陵端⇒根古・小屋・館下・竹下・竹の迫などの地名
主要道路や河川に面したところ⇒袋・瀬・曲・和田(輪田)

・住居形態は竪穴住居・高床住居(倉庫)である。

石巻では、旧葛西氏、旧山内首藤氏の各家臣の言い伝えある家と城館遺跡等を基に、また中世に由来する地名を基に中世集落を想定することが出来る。
また、中世以前の創建・建立とされる寺社の周辺にも集落が形成。

[まとめ]

・各時代の集落を見ていくと、その時々により成り立ちに違いがあることに気付く。
生業、住居構造、社会状況などと要因は多様であるが、より良い状況を求めて集落を形成していった。時には移転・消滅する集落もあった。成立だけでなく、移転や消滅という事実も踏まえて、「住む」ということを考え直していくことが大事である。

●災害遺跡についても説明がありました。

・牡鹿半島に小網倉浜がありますが、過去3回の津波痕跡が見つかっています。
①最も古いのは縄文時代のものです。この痕跡は、約5400年前に降下した十和田中セリ火山灰の下にあり、約5500年前のものと言われています。津波痕跡の特徴としては、1cm前後の円い小さな石が多量に層をなしています。

縄文時代の津波痕跡の50cmほど上には869年貞観地震の津波痕跡もありました。
そのすぐ上には915年に降下した十和田a火山灰が堆積しており、年代を測る上で貴重な資料であることがわかりました。

その20cmほど上には1611年に発生した慶長の大地震の津波堆積物が発見されています。


・湊小学校遺跡も津波の痕跡と考えられる。

                           (石巻図書館郷土史講座 資料より)

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    災害復旧工事中の小網倉漁港です。↑

陸奥国分寺跡  仙台市若林区木下

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仁王門 ↑
仁王門の建つところは南門が建っていたところです。」

陸奥国分寺は天平13年(741)、聖武天皇によって全国に建立を命じられた国分寺のひとつで、最北のものです。

陸奥国分寺は陸奥国府のあった多賀城から約10Km西にあります。
また、陸奥国の最初の国府でないかとみられている郡山遺跡の約6Km北にあります。

陸奥国分寺創建の頃、陸奥国にはすでに郡山廃寺、多賀城廃寺の2寺がありました。

律令国家は、国家支配に組み込まれていない東北の原住民を蝦夷と呼称し、支配の拡大を図っていた時代でもありました。


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仁王門近くにある案内板  ↑

昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mの築地塀が囲み、南北一直線上に南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並んでいることが判明した。また、中門と金堂は複廊式回廊で結ばれていること、さらに金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。

屋根には編行唐草文軒平瓦と、多賀城と同じ八葉重弁蓮華文軒丸瓦とで葺かれていたこともわかり、七重塔の青銅製相輪軸の先端も出土した。
この相輪軸は高熱を受けていたため、「日本紀略」にみられる承平四年(934)の落雷による国分寺焼失と関連づけられています。

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境内には旧国分寺の礎石があります。 ↑


頼朝が藤原泰衡を討ち奥州を征伐した文治5年(1189)に焼失した。
中世以降は衰退したが、寛喜2年(1230)頃の名取熊野新宮寺蔵の写経奥書には、国分寺西院僧の名が見え、鎌倉時代後期には真言律宗西大寺(奈良市)の末寺となった。

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薬師堂(国指定重要文化財) ↑

慶長12年(1607)伊達政宗が、陸奥国分寺跡に薬師堂を創建し、同時に仁王門や鐘楼など建立しました。厨子内には薬師如来が安置されている。


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鐘楼(仙台市登録文化財) ↑

伊達政宗が寛永6年(1629)に鋳造させた梵鐘が納められていたが、太平洋戦争で軍に供出されたため残っていません。現在の梵鐘は昭和42年(1967)に新鋳されたものです。
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白山神社拝殿 ↑

薬師堂の東側には、奈良時代、国分寺創建と同時にその地主神として祀られたという、白山神社があります。
文治5年、源頼朝が藤原泰衡を攻めた際、陸奥国分寺とともに兵火にかかり焼失。
天正年間(1573~1593)に国分盛重が社殿を造営し、伊達氏も崇敬厚く神領を寄進しました。

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白山神社本殿 ↑

本殿は2代藩主伊達忠宗によって再建されました。
宮城県指定有形文化財に指定されています。


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準胝観音堂(仙台市登録文化材)↑

薬師堂の西側に準胝観音堂がある。仙台三十三観音の二十五番札所となっており、5代藩主伊達吉村の夫人長松院久我氏冬姫が本尊の準胝観音を寄進して、焼失していた堂を再建しました。

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準胝観音堂の近くの百八地蔵尊(延命地蔵尊) ↑   

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準胝観音堂の近くには芭蕉句碑もあります。
「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」

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芭蕉句碑の案内板 ↑

現在の陸奥国分寺は真言宗智山派の寺院です。
護国山医王院陸奥国分寺と号します。

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陸奥国分寺本坊 ↑   


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大塔はコンクリート製で高さ21mあります。↑

崎山遺跡現地説明会   女川町

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2014年12月21日宮城県女川町にある崎山遺跡の現地説明会が行われました。
東日本大震災に伴う、土地区画整理事業・国道398号線付け替え工事のため、発掘調査を行ったものです。

この場所は縄文時代後期の土器や石器が採集されたことから、縄文時代の遺跡として登録されていました。
崎山遺跡は、女川湾に向かって南西方向にのびる丘陵先端部に位置し、遺跡範囲は東西150m、南北約150mです。



初めに、崎山遺跡の概要について説明がありました。↓(動画)




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崎山遺跡の遺構配置図 ↑


丘陵頂部の平坦面は、大部分が本来の地形が削平されていました。
旧地形が一部残存していた斜面際のA区と丘陵下の沢部分・B区で縄文時代の遺物包含層が確認されました。

また、緩やかな斜面となっているB区南端で奈良時代の竪穴住居跡2件が確認されました。


奈良時代の竪穴住居跡についての説明です。↓(動画)

竪穴住居跡2は、床面の堆積土に炭化材が多く含まれており、火災にあったとみられ、住居内に多くの遺物が残されていました。1点のみ出土した須恵器(壺蓋)は、当時の在地の一般集落ではほとんど出土しない貴重品です。また、土師器の壺は須恵器の壺の形を真似て作られたとみられます。須恵器や須恵器の模造品の存在から、崎山遺跡の集落が律令政府と関わりがあったことがうかがわれます。


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竪穴住居跡2とカマド↑


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出土した須恵器 ↑

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須恵器の壺を真似て作ったとみられる土師器の壺 ↑

女川の奈良時代を考える上で貴重な遺跡です。↓(動画)



奈良の都を中心とした律令国家は、在地の住民である蝦夷が住む東北地方に、関東地方から多くの移民を導入し、軍事や行政の機能をもつ城柵・官衙を造り、支配する領域を拡大しました。

石巻地域では、8世紀初め頃までに東松島市赤井に牡鹿柵、760年に石巻市桃生に桃生城が造られたことが、発掘調査や文献資料からわかっています。

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製塩土器 ↑

土器を使って塩造りが行われていたと思われます。


●縄文時代の遺物包含層が発見され、前期後半・後期前半の遺物が出土しています。
  竪穴住居跡などは発見されていませんが、遺物が大量に出土している後期前半(約4500年前)には、調査箇所の周辺に縄文時代の集落が営まれたと考えられます。

桃生城に訪れる時期は冬季間に限ります。

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桃生城へ通じる道の入口 案内板があります。ここを道路なりに進むと桃生城跡に至ります。

石巻市河北町飯野字中山から桃生町太田字沢入畑の通称「長者森」に桃生城があります。
続日本紀により造営年代とその後の経過がわかる東北の古代城柵です。
桃生城跡の位置は諸説あったが、昭和49年、50年宮城県多賀城跡調査研究所の発掘調査によって、通称「長者森」に「政庁跡」や「外郭施設」が発見されました。

その後、平成6年から平成13年までの調査が行われた。通算10年間に10次にわたっての発掘調査です。。

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この道路の手前に小さな駐車場があります。そこに車を置いて、この道路を進むと、大きな案内板があります。 

2015年1月26日、久しぶりに桃生城跡に訪れました。
昨年の6月にも訪れましたしたが、史跡は雑草が生い茂り、近づくことも困難な状況でした。
冬期に訪れることで、史跡を直接見られると思い、今回訪れた次第です。
この史跡は、冬季に行くのがベターのようです。

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政庁跡の近くに立っている案内板↑

●藤原仲麻呂は橘奈良麻呂の乱を未然に防いだ、天平宝字元年(757)頃から絶大な権力を手中におさめるようになる。この乱に連座した陸奥鎮守将軍兼按察使大友古麻呂、陸奥守兼鎮守府副将軍佐伯全成を更迭して、4男である藤原朝獦を任じ、強力に東北経営を進めた。陸奥国府多賀城の全面改修、さらには、陸奥国に桃生城を、出羽国には小勝城を造営し、陸奥出羽一体の支配強化を図りました。

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●桃生城は天平宝字3年(759)には完成したようです。
桃生城を母体として、桃生城完成間もない頃、桃生郡が新置されたとみられています。
大河北上川の河口に近く、物資の集散、管理に最適であるこの地を押さえることは、北上川上流の岩手県水沢(胆沢城の地)や盛岡(志波城の地)を支配下に組み入れるための必然の策でありました。
桃生城跡がある丘陵の南裾には北上川の旧河道と言われる古川が流れている。
桃生城の造営において現地で大きな役割を果たしたのは牡鹿郡領道嶋一族であった。
桃生城・小勝城および伊治城の造営に代表される一連の支配強化は、在地の庶民の貧困を招き、激しい抵抗を引き起こすこととなりました。
それが、宝亀5年(774)に勃発した海道蝦夷の抵抗であり、38年の動乱の契機となりました。 


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手前杉林の奥が政庁跡です。↑

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政庁跡は写真(上)のような状態です。全く管理されていないようです。↑

下の写真は昨年6月撮影したもので、政庁跡には、とても入れる状況では)ありませんでしたが、今回は政庁跡に踏み込むことが出来ました。


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昨年6月撮影の政庁跡 ↑

●東側丘陵のほぼ中央には、四辺を築地塀で方形に区画された南北約72m、東西約66mの政庁域があります。政庁ないには、主要な建物(正殿、後殿、東西両脇殿)が整然と配置され、南半には広場が設けられている。



案内板の左に向かうと土塁跡があります。表示板に左方向に150Mとあります。
昨年6月は、道に草が茂り入っていける状況にありませんでしたが、今回は通れました。


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この道路を150m入ったところに土塁跡があります。 ↑


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やっと、土塁跡(外郭北辺)に到着です、↑
外郭北辺は東西約650mあるようです。

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土塁跡の表示版を右側(東方向)に行くと、北辺東隅に達します。↑
土塁跡と大溝が発見されいます。

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北辺東隅の東側にはフェンスがあります。↑
フェンスの向こう側は傾斜地になっており、その下では三陸道四車線工事が行われているようです。


宮城県教育委員会は平成15年三陸道建設計画に伴い、桃生城跡の北東部に隣接する地域を発掘調査を行っている。三陸縦貫道建設関連遺跡調査報告書を読むと、フェンスの向こう(東側)がその場所と想定されます。

溝跡3条、土塁跡1条、竪穴住居3軒発見されています。

この遺跡の発見で、これらは桃生城外郭北辺区画施設と考えられているようで、桃生城の全体の規模がこれまで考えられた範囲より東側に拡大していた時期があったと調査報告書は述べています。

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外郭北辺の西隅と思われる所です。↑(桃生町太田)

外郭北辺の西隅は築地塀と大溝からなっています。

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南方向に分岐する城内区画施設 ↑

外郭北辺は中央部で東西と南に分岐します。
南側は分岐して、城内区画施設となります。


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杉林の下部が城内区画施設と思われます。↑

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この場所が城内区画施設にあった櫓跡か? ↑

城内区画施設は築地塀と大溝からなっており、櫓跡もありました。

●外郭は、築地塀、土塁、材木塀、大溝によって区画されており、場所によって異なっています。

遺跡内は東西二つの丘陵があって、城内北半は北辺から延びる城内区画施設によって区分されている。
西側丘陵については、桃生城の機能していた年代に関わる遺構は発見されていません。

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政庁西側官衙地区がある丘陵です。上部が官衙施設があった所と思われます。 ↑

北側の丘陵から撮影しました。


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南側丘陵の尾根の平たん地に政庁西官衙が存在します。 ↑

●政庁域以外に、政庁東側と西側に建物が建てられた地区が存在し、これらは実務官衙とみられている。

城内の地形から実務官衙域は、未調査部分にさらに存在すると思われている。

●政庁内の主要な建物及び南辺築地塀、政庁東側官衙の建物、西側の大規模な建物、外郭北辺の築地塀、城内区画築地塀と櫓は火災により焼失し、その後再建されていないことが調査によって判明しています。


Photo

●桃生城跡の外郭東辺のすぐ東隣に新田東遺跡があります。
平成13年、宮城県教育委員会は三陸道の建設に先だって道路の用地部分の発掘調査を行っています。
発見された古代遺構は掘立式建物跡8棟、竪穴住居53軒などです。

奈良時代を中心とした大規模な集落と考えられています。集落規模は東西約300m、南北約350mの丘陵全体に及ぶと推定されています。

桃生城の造営・維持に携わった人々や鎮兵の集落と考えられています。

中沢遺跡 現地説明会 2013.3.16  石巻市給分浜

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2013年3月16日石巻市中沢遺跡の現地説明会が開かれました。
牡鹿半島南西部(石巻市給分浜)に位置する縄文時代前・中期を中心とする集落跡で、標高27mに立地しています。今から約5500年から7000年前です。

この場所は東日本大震災の被害を受けた皆さんの高台移転先になっており、早急な調査が求められています。石巻市では宮城県からの職員協力を得、そして愛媛県、島根県、神戸市からの専門家の派遣によって調査を進めてきました。

調査面積2万㎡のうち、今年度は1万㎡完了し、今回現地説明会を実施したものです。
残りの1万㎡は平成25年9月には終了の予定です。

 先ずは、石巻市教育委員会学芸員からの説明です。

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  出土遺物 の説明です   ↑ ↓





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 縄文時代の竪穴住居跡の説明です ↓
    



   
奈良・平安時代の竪穴住居跡の説明です↓



 


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   遺跡から表浜漁港が望まれます ↑

                説明会に参加した皆さん  約100名  ↓

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  牡鹿半島は7千年前から人が集落を作って豊かな生活をしていたのですね。
山には鹿などの動物、海では貝や海草それに魚も大漁。縄文時代当時の人にとっては  最高の場所です。

もちろん現在もそうです。津波では大きな被害を受けましたが、必ずや復興・再生するに違いありません。




         
その後、2013年8月10日に発掘現地説明会実施しています。
          参考まで、ご覧下さい。

中沢遺跡 現地説明会 2013. 8.10 石巻市給分浜

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2013年8月10日牡鹿半島にある石巻市中沢遺跡の発掘調査現地説明会が行われた。
この場所は東日本大震災により被災した皆さんの高台移転先になっています。

遺跡は牡鹿半島南西部に位置し、石巻湾に面した「給分浜」を見下ろす標高約27mの丘陵上に立地しています。
縄文時代前~中期(5500~7000年前)の集落跡を中心に、古墳時代中期や平安の住居跡も見つかっています。



丘陵頂部の平坦面や南・北斜面から縄文時代の建物跡10棟、竪穴住居5軒、多数のピットが見つかり、6箇所の沢地には同時期の遺物包含層が形成されています。
遺物包含層とは「遺物を含んでいる層」をさしますが、形成要因はいろいろです。中層中には約6000年前の降下した火山灰の層が認められたそうです。

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      発掘された石器 石鏃(せきぞく)、石匙(いしさじ)
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   発掘された縄文土器  煮炊き、貯蔵用として作られた当時の必需品です。
  今から6000年前を中心とした大木式土器。装飾的な文様が見られます。

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発掘された石斧や砥石等

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包含層の説明ですが、 実際の発掘作業も見物させて頂きました。

建物跡の説明です。 南側には縄文時代前期後半のものと推定される長さ10~20mの細長い長方形をした大型の建物跡や住居跡が弧状に配置されています。


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内山遺跡 現地説明会    女川町

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2014年6月21日宮城県女川町「内川遺跡」の発掘調査現地説明会が実施されました。

今回の内山遺跡の発掘調査は東日本大震災による、高台移転に伴うものです。

工事により遺跡が破壊される前に、後世に遺跡の記録を残すため、発掘調査を行っています。

調査は、他県(兵庫県・香川県・長野県松本市)から専門職員の派遣協力をえて、行われました。

 

 


まずは、内山遺跡の概要説明がありました。(動画) ↑

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内山遺跡の平面図 ↑



内山遺跡は、女川湾の西奥に向かって南北方向にのびる丘陵に位置し、遺跡範囲は東西約500m、南北約100mほどです。

縄文時代前期~晩期の土器や石器が多く採集されており、古くから縄文時代の遺跡として知られていました。



●遺物包含層 (D区)

 

D区のゴミ捨て場(遺物包含層)等の説明(動画) ↑


D区の丘陵西斜面にごみ捨て場がみつかりました。
斜面に堆積した黒色土からは、縄文土器や石器が大量に出土しました。出土した遺物の中には「黒曜石」製の石器や接着材に使用された「アスファルト」など、女川町内では採れない素材を利用したものもあります。

 

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黒色土が遺物含有層 ↑


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出土した縄文土器 ↑


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出土した石鏃や黒曜石等 ↑



● 貯蔵穴

貯蔵穴についての説明(動画) ↑


B区・C区の丘陵平坦部で、木の実などの食料の保存に使われたと考えられたと考えられる土坑(穴)がまとまって見つかりました。
貯蔵穴は口の部分より底の方が広く、横から見るとフラスコ形に掘られています。

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貯蔵穴 ↑


大きさは直径1~1.5mの円形で、深さは残存状態がよいもので、1.2mあります。

底面には、湿気抜きを目的とした細い溝や小穴が掘られているものが見えます。
深い穴の中には温度が低く、食料が腐らずに長期間保存ができたようです。

保存の役目を終えた後には、ごみ捨て穴として再利用されたものもあります。
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貯蔵穴 ↑



 炉跡

炉跡についての説明(動画) ↑



B区
・C区の丘陵斜面際で見つかりました。
炉跡には、地面を円形に掘りくぼめた「地床炉」と、土器を埋め混んだ「土器埋設炉」があります。

B区南西には、輪切状に割った土器を埋め混んだ炉とやや横向きに土器を埋め混んだ炉が並んで見つかりました。
土器の埋め方が異なるこれらの炉は、機能に違いがあったと考えられます。



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炉跡 ↑




● 建物跡


建物跡についての説明(動画) ↑




●江戸時代の墓跡




江戸時代のお墓跡についての説明(動画) ↑


B区の丘陵東斜面で、江戸時代(約200年前)のお墓の跡」が10基みつかりました。

人が亡くなるごとに1m前後の方形の墓穴を掘り、遺体を埋葬した土葬墓で、埋土の状況から、木製の棺や桶に入れて埋葬されたとみられます。
お墓には、古銭(寛永通宝)、煙管、漆器の椀、毛抜きとみられる鉄製品が副葬されていました。江戸時代に内山集落に暮らした村民のお墓と考えられています。

 

水沼窯跡・安楽寺廃寺跡   石巻市水沼

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安楽寺跡の推定位置↑

稲井地区の集落は小さな農村であるが、、それぞれの集落に古代からの遺跡が多く存在する。

石巻市水沼には天台宗安楽寺廃寺跡と水沼窯跡がある。

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牡鹿郡の天台宗は16世紀に退潮したそうで、この頃安楽寺が廃寺になったのか?
この安楽寺の信者層を基盤として、曹洞宗龍泉院が開山したと言われている。

南側の道路沿いに鎌倉時代から南北長時代の年号をもつの板碑が約20基ほど立っているが、安楽寺跡に立っていたものです。
その背後から「一字一石経」の経石も出土している。

「一字一石経」とは⇒ 河原石に教典の文字を一字一字墨書して埋納した経石

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経石 安楽寺跡に立っていた板碑 ↑


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水沼窯跡 ↑

昭和59年(1984)発掘によって陶器窯跡と炭窯跡が発見された。

近所の婦人の話によると「石巻専修大学」用地の埋め立てのための土を確保するため山を掘った際に発見された」ということらしい。

水沼窯跡の構造は東海地方の窯跡と共通し、特に渥美焼の窯跡に類似している。
水沼窯跡の製品は12世紀平泉の泉屋遺跡と柳之御所跡などから出土していることから水沼の製品は平泉藤原氏が渥美半島から高級陶器を製作できる工人をつれて来て平泉の河口湊に近い水沼で生産されたものと推測されそうだ。(石巻の歴史 第7巻)

Atumiyaki

袈裟襷文(けさだすきもん)の壺 渥美焼 ↑
写真は渥美半島で発見されたものです。
  



発見された壺には袈裟襷文(けさだすきもん)という渥美焼に特有の文様が施されている。
北上川の水運を使って平泉まで運んだとそうだ。

五十鈴神社古墳と小松遺跡   東松島市

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東松島市にある小松遺跡は、石巻湾の海退によって生じた第二浜堤帯にあって、北上川や定川の沖積作用と海退によってできた大きく広い浜堤の上にある。

東西約1.5Km南北600mの範囲に古墳時代や奈良・平安時代の大きな遺跡として知られているが、弥生後期の土器片も出土していて、石巻地方の数少ない弥生時代の遺跡だ。

古墳時代の遺物は土師器、土製支脚、土錘で、土師器は塩釜式(4世紀)と南小泉式(5~6世紀)の壺・高杯である。7世紀の住社式や栗囲式の土器は知られていない。
小松遺跡の北方には、牡鹿柵、牡鹿郡家に比定されている赤井遺跡がある。

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小松遺跡の東側、浜堤跡に、砂を盛り上げた五十鈴神社古墳(小脇浦古墳ともいう)がある。

径30m、高さ5mほどの円墳で、出土した埴輪の年代観によって、5世紀末葉から6世紀後葉に築造と推定されている。
墳丘の表面から破片が20点ほど採集されている。
おもに円筒埴輪の破片で朝顔埴輪が1点混じり、形象埴輪の破片もみられることから、ここでは何種類もの埴輪が墳丘に並べられていたようだ。

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現在、古墳の上に五十鈴神社が鎮座している ↑

かって、この古墳の近くに円い塚が5基あって5騎塚と呼ばれ、甲冑と太刀が出土したそうです。おそらく古墳群だったと言われています。


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小松集落 ↑ 小松遺跡はこの集落の北側にある。

旧矢本町の平野は海岸に平行して出来たいくつもの浜堤からなっている。
江合川は改修前、今のように北上川に和渕で合流せず、旭山丘陵と須江丘陵の間をとおって南に蛇行し、石巻港付近で石巻湾に流れていたと考えられている。現在の中井川と定川が旧流路である。

河崎柵は覚鱉城か?  一関市川崎町門崎

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川崎・薄衣市街地の北側・法面に描かれている絵 ↑

岩手県一関市川崎町門崎字河崎地内に河崎の柵跡がある。

陸奥話記 「前九年の役」、天喜5年(1056)11月源頼義(兵1800人)を撃つため安倍貞任は河崎の柵(柵主 金為行)に兵4000人を集め、薄衣から山を越え、黄海での合戦で勝利した。安倍軍が勝利したのは岩手県内では、後にも先にも「黄海の合戦」だけと言われている。

 

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「河崎柵」は、それがどこにあったのか確定されないままだったが、平成12年以降堤防工事に伴って

行われた、岩手県埋蔵文化財発掘調査によって出土した遺跡・遺物から、「河崎柵」の全容が明らかになってきた。

「前九年の役」での戦場「河崎柵」の遺跡発掘調査から、おまけのようなすがたで「覚鱉城」跡までが出土。これでもう「まぼろしの覚鱉城」でなくなった。

その証拠が「和同開珎」の出土、そして根本史料「続日本紀」がそれを裏付ける。(川崎町 千葉 明伸氏)

東北古代史の研究第一人者である高橋富雄も河崎・覚鱉城説

 ・高橋富雄 1921年生まれ 2013年死亡  日本史学者

      略歴 東北大学教授 盛岡大学学長 福島県立博物館館長
        

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覚鱉城

758(天平宝字2)の桃生城についで767(神護景雲1)に宮城県最北端に伊治城が造られると,次には北の胆沢の地つまり岩手県南部が,律令政府にとって領土獲得の対象となった。そこで伊治城から13年遅れて780(宝亀11)に覚鱉城築城の議がもち上がった。おりしも伊治城より南の長岡(宮城県大崎市)の百姓家が賊に焼かれる事件が起こり,造営はいよいよ急を要した。同年3月に按察使(あぜち)紀広純が直接築城の指揮を行ったが,蝦夷出身の伊治呰麻呂(あざまろ)の反乱にあい,殺害されるという事件があったので,完成したものかどうか不明とされる。

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●高橋富雄は[遠山村は磐井郡(現在、一関市)説]

海岸通の蝦夷経営の最前線は桃生城、山道北側は伊治城であった。

遠山村の蝦夷経営ということは、少なくとも桃生城の北、伊治城の北ということになる。
最南端でも、登米、東磐井。それから西側でも西磐井。

将軍たちが蝦夷を攻め滅ぼせなかったということは、桃生城の直ぐ北にあるということは考えられない。
そういう常識論からいって、遠山村というのは、西で言えば西磐井郡かそれを含むその北、それから東側で言えば東磐井郡を含むその北の地区ということになる。
(二重遺跡「河崎柵」「覚鱉城」高橋富雄先生講座)より抜粋

遠山村の蝦夷が桃生城襲撃炎上させたといわれている。

通説では、遠山村は登米(とよま)、覚鱉城は所在地不明となっているようです。
登米は現在の登米市登米町

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遺跡」跡にある案内板 ↑

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河崎柵の遺跡発掘調査地域 ↑ ↓

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一関南部の地狭部(川幅は約140メートル。“狐禅寺の地狭部”と言う) ↓

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北上川は狐禅寺では川幅狭くなるが、下って「河崎の柵」付近では川幅が広くなる。



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